
戦争のニュースが流れるたびに、私たちは言葉にできない痛みを覚えます。破壊された街、嘆き悲しむ人々、奪われていく命。遠い国の出来事であっても、その映像は静かに、しかし確かに、私たちの心に残ります。
なぜ人は、他者の命を犠牲にしてまで平和を保とうとするのでしょうか。それは本当に、平和と呼べるものなのでしょうか。
この問いに向き合うとき、一見無関係に思える「食事の選択」や「動物との関わり方」が、実は深くつながっていることに気づかされます。お皿の上の命に向き合うことは、社会の中に埋め込まれた「当たり前の暴力」を見つめ直すことでもあるからです。
ヴィーガニズムは単なる食事法ではありません。あらゆる生命への危害を可能な限り避けようとする倫理的な態度です。それは「非暴力(アヒンサー)」の実践であり、祈りにも似た人間の意思表明だと言えるでしょう。
王とサキサの対話:真の安定とは何か
ある国に、智慧ある王がいました。王は自国の民を治めるだけでなく、他国を倒し、領土を広げることで世界を安定させようと考えていました。 サキサは王に問いかけます。
「あなたはこの国の王です。まず、この国の民のために政治を行えばよいのではないでしょうか。なぜ他国を倒し、領土を広げたいのでしょう」
王は答えました。 「私は世界を制し、この世の安定のために生きたいのだ」
サキサは諭すように言いました。 「もし世界を安定させたいのであれば、まず今あるこの国を安定させることこそが大切ではないでしょうか。あなたが思い描く世界のために、この国の中で苦しんでいる民が多くいます。まずは、この国の安定から考えてみてはいかがでしょう」
さらに、サキサは続けます。
「弱い国へ兵を送るのではなく、食べ物や必要な物資を届けるのです」
王はサキサに問いました。
「なぜ我が国の財を他国へ与えなければならないのだ」
「困っている人々を助け、その国々が再び立ち上がれるよう支えるのです。困っているときに助けられた者は、その恩を忘れません。武力で従わせれば人々は王を恐れます。困っているときに助けることが出来れば、人々は王を敬うのです。王は戦わずして、世界の王と呼ばれるのです。」
この対話は、私たちに鋭い問いを投げかけます。 遠くの理想を掲げる前に、目の前の命を大切にしているだろうか。大きな正義を語る前に、身近な苦しみに目を向けているだろうか。
私たちは「正義」をどう作らされているか
事実と物語の境界線
私たちは「客観的に証明できないものは存在しない」と考えがちです。けれど本当にそうでしょうか。あるということが立証できないからと言って、無いとは言えない、ことについて触れてみます。
愛、希望、そして命を奪うことへのためらいである良心は、目に見えなくても確かに存在しています。
恐怖と怒りは深く結びついています。人は恐怖を抱えたままでは苦しいため、それを「怒り」や「正義」に変換し、自分自身を守ろうとします。
- 「敵が悪い」
- 「これは正義の戦いだ」
- 「殺すのは仕方がない」
そうした言葉の裏側には、恐怖をごまかすための物語が潜んでいます。
だからこそ必要なのは、他者を裁くことではなく、自分自身の心に静かに問いかけることです。
「いま自分は、恐怖をごまかすために誰かを敵にしていないだろうか?」
自分に嘘をつかないこと。それは、暴力の連鎖を断ち切るための、静かで勇気ある出発点です。
戦争という「構造」
歴史上、多くの戦争は「神の名」や「守るべき正義」のもとに行われてきました。ときにそこには、民衆を束ねるために、国家の権力と宗教の権威が結びつき、戦いを正当化するための「物語」が編まれてきた歴史があります。その物語は、敵と味方を切り分け、疑う余地を狭め、「戦わなければならない」という感覚を強めていきます。
異なる宗教間での問題、領土問題など、争いの理由はさまざまに語られます。それらが本当に憎しみを生み出したのか。あるいは、対立を正当化するために、後から巧みに利用されたのか。その奥にはしばしば、 「自分を守るために、他者を排除してもよい」という発想が潜んでいます。
さらに、その背後には、戦争によって利益を得る構造が存在する場合もあります。財を築く人々が、戦争をする国や宗教指導者に働きかけ、戦争が止まらないように動く。遠い国で、戦争がより大きく、より長く続くように動いている人たちがいる、そう考えることも、現実から目を背けないためには必要でしょう。
こうした構造がある限り、「敵は悪である」「我々は正義である」という物語は、繰り返し再生産されます。幼いころから摩り込まれた教育や歴史観は、疑うこと自体を難しくし、人は「戦わなければならない」と信じ込まされていきます。
個人の力で、戦争そのものを終わらせることはできないかもしれません。けれど、「戦争は誤りである」ことを、一人でも多くの人に知らせることはできます。
ただ、幼いころから叩き込まれてきた誤った教えは、言葉だけでは届かない場合があります。理屈で崩れない物語もあります。だからこそ、武器を捨て、勇気をもって、戦争が誤りであることを、そして非暴力という姿勢を、行為として示すことに意味があります。
どの国においても、戦争のために戦火の中へ身を投じる人の中に、人の道に背きたいから背き、悪逆な行為だと知りながら戦っている人が、果たしてどれほどいるでしょうか。
「敵は悪だ」「これは正義の戦いだ」そう信じ込まされることでしか、耐えられない現実があるのではないでしょうか。敵国が悪であるかのように語られ、幼いころから摩り込まれてきた「正しさ」によって、戦わなければならないと信じ込み、敵を殺している。
もし、曇りのない眼で真実を見ることができたなら。国や宗教の境界を越えて、同じように恐れ、傷つき、迷いながら生きる存在として、互いを見ることができたなら。
皆が武器を捨て、敵味方の区別なく、負傷した人を助ける道を選ぶのではないでしょうか。
武器を持たない選択。殺さない選択。奪わずに生きる選択。それは弱さではなく、人間が持ちうる、最も勇気ある態度なのかもしれません。
唱歌『ふるさと』が映すもの
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
如何ににいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいづる故郷
志を果たして いつの日にか帰らん
山は青き故郷 水は清き故郷

戦争に向かう兵士もまた、誰かの子であり、誰かの友でした。唱歌『ふるさと』に歌われる故郷への想いは、国や時代を超えて、多くの人々に共通する願いなのかもしれません。
なぜ「良心」は沈黙してしまうのか
戦火の中へ身を投じる人の多くは、生まれつき残酷でありたいわけではありません。幼いころから摩り込まれてきた「正しさ」、国家によって編まれた歴史、敵を一方的に悪として描く教育。そうした物語の中で「戦わなければならない」と信じ込まされ、同じように家族を持ち、恐れを抱き、迷いながら生きている他者を「敵」として殺してしまう。この構造こそが、戦争のもっとも恐ろしい側面なのではないでしょうか。
戦争は、誰かが生まれつき悪だから起こるものではありません。むしろ、人が疑うことを許されなかった結果として起こります。だからこそ、真実を見ること、問い続けること、「本当にそれが正義なのか」と立ち止まることには、計り知れない意味があります。
- 反応的(衝動的)暴力
怒りや恐怖から、瞬間的に相手を殴る・傷つけるといった暴力。 - 計画的(協調的)暴力
戦争や処刑、ジェノサイドのように、冷静な判断と役割分担のもと、組織的・継続的に行われる暴力。
皮肉なことに、人間が持つ高度な協調性や計画性は、福祉や文化を築く力であると同時に、ひとたび方向を誤れば、かつてない規模の破壊をも可能にしてしまいます。
「善良な市民」として命令に従い、組織に協力する力が、「これは正義だ」「必要な犠牲だ」という正当化の物語と結びついたとき、個々人の良心は後景に退き、集団としての残虐さが前面に現れます。
戦火の中で命を奪う人は、必ずしも残酷な本性を持っているわけではありません。そこではむしろ、人間特有の「協力する力」そのものが、破壊の方向へ動員されているという側面が見えてきます。
生命の歴史が教えること
私たちは自然界を「弱肉強食」という言葉で説明しがちです。
しかし生命の歴史を見れば、進化を支えてきたのは競争だけではありません。
細胞は共生し、多細胞生物へと進化しました。植物は太陽の光を利用し、酸素や食物を循環させています。
生命は奪い合いだけでなく、支え合いによって発展してきたのです。
私たちは今も問われています。競争を社会の原理にするのか。それとも共生を社会の原理にするのか。
暴力の根源にある「境界線」
アヒンサー(非暴力)とヴィーガニズム
ジャイナ教や仏教、ヒンドゥー教といった古代インド哲学における「アヒンサー(非暴力)」の思想は、人間だけでなく、あらゆる生命への危害を避けることを指します。
マハトマ・ガンディーらが説いたように、「国家による戦争」と「動物への暴力」は地続きです。弱者を犠牲にしてよいという境界線をどこかに引いてしまう社会は、その境界をどこまでも広げてしまう危険を孕んでいます。
ヴィーガニズムが問いかけているのは、
「誰の痛みを、私たちは見ないことにしてきたのか」
という根源的な問いです。
- 種差別: 人間と動物の間に境界を引き、弱者を「資源」として扱う。
- 戦争: 国籍や民族の間に境界を引き、他者を「標的」として扱う。
一見別物に見えるこの二つは、他者の痛みへの想像力を遮断するという点で、よく似ています。
「自分たち」と「それ以外」を分ける境界線。
その線の外側に置かれた存在の苦しみは、見えにくくなります。そして、やがて正当化されていきます。
人間に対する暴力を止めることは、私たちが加担しているすべての暴力を問い直すことと切り離せません。

平和を具現化するために
平和は理想だけでは実現しません。理想論で終わらせないために、私たちは社会の仕組みを「共生」へとシフトさせる必要があります。それを支える仕組みが必要です。
- 教育は、勝つ力よりも他者の痛みを想像する力を育てること。
- 経済は、奪い合いではなく循環によって成り立つ仕組みへ向かうこと。
- 技術は、破壊ではなく命と対話を支えるために使われること。
その方向へ社会が進むとき、平和は現実的な選択肢になります。
今日からできる、静かな革命
戦争のない世界を目指すということは、「誰かの犠牲の上に成り立つ平和」を拒否するということです。
平和は、遠い国の指導者だけが決めるものではありません。私たち一人ひとりの日常の選択と心の向け方から始まります。
- 嘘をつかない
- 困っている人に「お手伝いしましょうか」と声をかける
- 他者の痛みを、自分のこととして想像する
誰かを押しのけて得るものではなく、できるだけ他者を傷つけずに生きることを選ぶ。
多くの人は、自分が突然、理不尽な暴力の犠牲になるとは想像していません。それでも現実には、戦争や紛争、テロは繰り返されています。けれど、人間の内側には確かに「良心」と呼べるものが存在します。その声に耳を澄ませ、謙虚に生きようとするなら、争いは少しずつでも和らいでいくはずです。
私たちは皆、違う存在です。しかし、その違いを否定するのではなく、話し合う力を使うこと。それこそが、人間に与えられた最も希望のある能力なのです。
ヴィーガニズムが問いかける「できる限り傷つけない生き方」は、動物だけでなく、人と人との関係にも向けられるものです。
平和とは、どこか遠くで完成される理想ではありません。私たち一人ひとりの日々の選択の中で育まれていくものなのです。
あとがき
この記事は、特定の国や宗教、思想を批判するためのものではありません。
私たち一人ひとりの内側にある、暴力へと傾きうる心の癖を見つめ、それを少しずつ慈しみへと変えていくための提案です。



