
戦争のニュースが流れるたびに、私たちは言いようのない痛みを覚えます。「なぜ人間はここまで利己的になれるのか」と。領土、資源、宗教、民族ー。争いの理由はさまざまに語られますが、その根底にあるのは常に「自分たちの集団を優先し、他者を排除する」という発想です。
どの国においても、戦争のために戦火の中へ身を投じる人の中に、人の道に背くことを望み、悪逆な行為と知っていながら戦う人はいないでしょう。幼いころから摩り込まれてきた、神の名を借りた正義、国家によって編まれた歴史、敵国を一方的に悪と描く歪められた教育。そうした贋造された物語の中で、戦わなければならないと信じ込み、結果として、同じように家族を持ち、恐れを抱き、迷いながら生きている他者を殺してしまうのです。もし、私たちが曇りなき眼で真実を見ることができたなら、誰もが武器を捨て、敵味方の区別なく傷ついた人を助け合う道を選ぶでしょう。
戦争とは、誰かが生まれつき悪だから起こるものではありません。それは、人が信じ込まされ、疑うことを許されなかった結果として起こります。だからこそ、真実を見ること、問い続けること、そして「本当にそれが正義なのか」と立ち止まることには、計り知れない意味があります。戦争を終わらせる第一歩は、敵を倒すことではなく、物語の背後に隠された人間の存在に気づくことなのかもしれません。
38億年におよぶ生命の歴史を紐解けば、そこにはまったく逆の姿が刻まれています。生物は「利己的」であったからこそ生き延びたのではなく、「利他的」であったからこそ進化してきたのです。
あるということが立証できないからと言って、無いとは言えない、ことについて触れてみます。
ふるさと♪
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
如何ににいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいづる故郷
志を果たして いつの日にか帰らん
山は青き故郷 水は清き故郷
生命は「利他的」であったからこそ進化した
「利己的」という誤解を解く
生物学において「利己的遺伝子」という言葉が有名ですが、それは個体が勝手気ままに振る舞うことではなく、むしろ「次世代に命を繋ぐために、いかに他者と協力するか」という高度な戦略を含んでいます。38億年の歴史は「独り勝ち」した種ではなく「繋がりを築いた」種が生き残ってきた歴史です。戦争はこの「繋がりの原理」に対する最大の反逆と言えるでしょう。
私たちは「弱肉強食」こそが自然の摂理だと教えられてきました。しかし事実は逆です。生命は、単なる利己的な競争ではなく、「利他的な共生」を選択した瞬間に大きな進化を遂げてきました。
生命の歴史を振り返ると、最初の生命は、地球の海に漂う小さな単細胞でした。そこから始まった約38億年にわたる進化の歩みは、「競争」だけでなく、共生によって大きく前進してきた歴史でもあります。
- 細胞の共生: かつて独立していた細胞同士が手を取り合い、ミトコンドリアや葉緑体として一つになったことで、複雑な多細胞生物が誕生しました。
- 植物の分かち合い: 植物は太陽の光からエネルギーを生み出し、自らの成長を超えて酸素や食物を他の生命に差し出します。この「分かち合い」の循環がなければ、人間も動物も存在できません。
「進化の本質は競争ではなく共生にある」とする視点は、現代の分断された社会において、私たちが立ち返るべきもっとも根源的な真理の一つかもしれません。
非暴力(アヒンサー)とヴィーガニズムの歴史的なつながり
人類は古くから、人間同士の暴力─とりわけ戦争─に対して本能的な拒否感を抱いてきました。その延長線上にある思想のひとつが、ヴィーガンの根底にも流れる「アヒンサー(非暴力)」の理念です。
アヒンサーとは、単に人を傷つけないという意味にとどまらず、あらゆる生き物に対して害を与えないことを理想とする倫理観です。この思想は、ジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教といったインド哲学において、数千年前から「非暴力」が最高位の徳とされ、特に強調されてきました。
このアヒンサーの思想を、宗教的教義の枠を超えて社会変革の原理へと押し広げた人物として、かつて、マハトマ・ガンディーやレフ・トルストイは、国家による暴力(戦争)と、人間が動物に加える暴力を、同根の問題として捉えました。 「強者の都合で弱者を犠牲にしない」 このシンプルな倫理を徹底しようとすれば、戦争への反対と、動物への暴力の拒絶は、自然に一つの道へと重なります。
反戦運動とヴィーガン/菜食主義の重なり
20世紀初頭の平和主義運動や社会改革運動を振り返ると、反戦・非暴力・菜食主義(のちのヴィーガン思想)はしばしば同じ場所で語られてきました。
その理由は単純です。これらの運動はすべて、
- 命を選別しない
- 強者の都合で弱者を犠牲にしない
- 暴力による解決を拒否する
という共通の倫理的土台を持っているからです。
そのため、戦争に反対する人々の中には、同時に動物の権利や菜食を支持する人が少なくありませんでした。
「人を殺さない社会」を目指すなら、「他の命を殺すこと」を当然視する価値観も問い直される─そうした思考の流れが自然に生まれたのです。
「種差別の撤廃」と「反戦」の地続き
ヴィーガンが動物への暴力を拒否するのは、そこに「強者が弱者を恣意的に扱う」という支配構造があるからです。
- 動物に対する暴力: 人間という種による他種への支配。
- 戦争: 特定の国家・民族による他集団への支配。
現代においても、反戦運動とヴィーガン運動は完全に分離されたものではありません。一部のヴィーガン活動家や研究者は、戦争・軍事産業・環境破壊・動物虐待をひとつの連続した問題として捉えています。
戦争は人間の命を奪うだけでなく、
- 自然環境を破壊し
- 生息地を奪い
- 無数の動物を間接的に犠牲にする
という現実があります。そのため、非暴力を徹底して考えたとき、「人間に対する暴力」だけでなく「人間が行使するすべての暴力」を問い直す必要がある、という考え方が生まれてきました。
この選択は、単に食の問題にとどまりません。「動物を犠牲にしない」という価値観を広げていくと、自然と次の問いに行き着きます。
- 動物を殺さないという考えは、人間同士も殺さないという姿勢につながらないだろうか
- 動物を搾取しないという倫理は、他国や他民族を支配しない態度へとつながらないだろうか
- 環境を守るという選択は、未来世代を守ることではないだろうか
ヴィーガンの倫理と平和の倫理は、別々のものではなく、同じ利他性の根から育っている思想だと考えることができます。

戦争の影に隠された犠牲
戦争の犠牲者は人間だけではありません。
- 環境と生態系の破壊: 化石燃料の膨大な消費、膨大な二酸化炭素を排出し、森林破壊、生息地の消失、地雷・不発弾による長期的な生態系へのダメージを与えます。戦争は、植物が築き上げた生命の循環を無惨に引き裂きます。
- 軍事目的の動物実験: 歴史上、そして一部の国では現在も、戦傷治療や化学兵器の研究のために、動物が使用され、声を上げられぬまま命を落としています。
「人間に対する暴力」を止めることは、「人間が振るうすべての暴力」を問い直すことと切り離せません。
戦争は、戦闘が終結した瞬間に終わるものではなく、長い時間をかけて人間と動物の双方に影を落とし続けるのです。

「頂点にいる」という錯覚を捨て、共生の未来へ
私たちは自らを「食物連鎖の頂点」だと錯覚しがちです。しかし、実際には植物の光合成なしには一秒も生きられない、生かされている存在です。
戦争のない未来とは、人類が「利己的な生存」を卒業し、「利他的な共生」という新しい進化の段階へ進むことを意味します。子どもたちに本当に手渡すべきなのは、他者を制圧する武器ではなく、異なる存在と共に生きるための「話し合う力」と「想像力」です。
教育と「偽りの神」からの脱却
真実を見る目を養うこと、つまり「誰かに与えられた正義」ではなく「生命の手触りから感じる倫理」を持つことが、武器を置くための第一歩になるのではないでしょうか。

共生へ向かうための三つの問い
この「共生の進化」というテーマを、さらに具体的に広げていくために、教育・経済・テクノロジーを「対立」ではなく「可能性」として現実社会に接続できるのではないでしょうか。
現代の教育は、知らず知らずのうちに競争を前提に設計されています。成績、順位、比較、勝敗。それらは確かに社会を生き抜く力の一部かもしれませんが、生命の本質を学ぶ機会としては十分とは言えません。植物や動物、人と関わりながら、「奪わずに生きる」「共に循環する」体験を重ねることです。種を蒔き、育て、分かち合う経験は、共に生きるために工夫する力を育てます。
多くの戦争の背景には、石油や水など資源の奪い合いがあります。現代の経済は、有限な資源をめぐる競争を前提として組み立てられてきました。奪い合うのではなく、循環させることで全体が豊かになる仕組みへ転換できます。地域循環型・分散型・持続性重視といった、平和と相性のよい経済モデルが見えてきます。
技術は戦争や動物犠牲に代わる選択肢をすでに生み出しています。問題は技術の有無ではなく、それを社会の主流にする意思があるかどうかです。
教育・経済・技術が共生の方向を向くとき、平和は現実的な選択となります。それを「奪うため」に使うのか、「守るため」に使うのか。選択次第で、未来の姿は大きく変わります。
| テーマ | 現代におけるアプローチ |
| 教育の役割 | 幼少期から「競争」ではなく、植物や動物との「共生」を実体験として学ぶ機会をどう増やすか。 |
| 経済と平和 | 奪い合い(資源争奪)に基づかない、分かち合い(植物的な循環)の経済モデルは可能か。 |
| テクノロジー | 戦争や動物実験に代わる、生命を傷つけない技術(シミュレーション等)をどう社会の主流にするか。 |
結びに:生命の原理に立ち返る
植物は何も語りませんが、その存在そのもので「与え合うことが生命を広げる」と教えてくれています。 ヴィーガンが「動物との共生」を選ぶように、私たちが「人間同士の共生」を選ぶとき、38億年続く生命の物語は、より輝かしい次の一ページをめくることになります。
すべての暴力は繋がっています。そして、すべての平和への願いもまた、繋がっています。 憎しみや欲望に流されず、内なる良心の声に耳を澄ませること。そこから、戦争のない、真に平和な世界への歩みが始まります。
まとめと注意
非暴力とヴィーガンの関係は、流行や一時的な思想ではありません。それは、「誰かの命を犠牲にして成り立つ平和は、本当の平和なのか」という、人類が長く抱えてきた問いへの、ひとつの誠実な向き合い方です。
ヴィーガンであるかどうかに関わらず、このつながりを知ることは、「暴力とは何か」「平和とは何か」を考えるための、静かな手がかりを与えてくれます。
多くの人は、自分が突然、理不尽な暴力の犠牲になるとは想像していません。それでも現実には、戦争やテロは繰り返されています。その背景には、ときに宗教や国家、正義の名が持ち出され、問題はより複雑で、解きほぐしにくいものになってきました。
しかし、人間の内側には「良心」と呼べるものが確かに存在します。憎しみや欲望に流されず、その声に耳を澄ませ、謙虚に生きようとするなら、争いは少しずつでも和らいでいくはずです。
人は互いに違う存在です。その違いを否定するのではなく、話し合う力を使うこと―それは人間に与えられた、もっとも希望のある能力です。
今この瞬間も、世界のどこかで戦火に苦しむ人々がいます。同時に、戦争の裏で利益を得る者が存在することも、否定できません。だからこそ、武器を手放し、「戦争は誤りである」という姿勢を行動で示すことが必要なのかもしれません。戦争は、人間だけの問題ではありません。動物や自然を含めた、すべての生命に関わる問題です。
静かに事実を見つめること。そこから、次の選択は変わっていくのだと思います。
注)以下の部分は、事実そのものではなく、事実をどう解釈し、どう生きるべきかという「価値観・信念」の領域です。
- 「戦争は進化から逸れた状態である」という考え: これは「生物は共生すべき」という倫理的な解釈です。生物界には「共生」と同時に「捕食」や「生存競争」も存在するため、どちらを人間の規範(モデル)とするかは、哲学的な選択となります。
- 「動物を殺さないことは、人間を殺さないことに繋がる」という視点: これは「暴力の連鎖」を断ち切ろうとするヴィーガン思想の核心ですが、科学的に「Aならば必ずBになる」と証明されているわけではなく、より良い社会を目指すための「倫理的な指針」です。
「生物学的な共生の事実」を土台にして、「人間社会も共生を目指すべきだ」という倫理的なメッセージを構築したものです。
「38億年の生命の歩みが共生であった」という科学的な側面は事実ですが、「だから人間も戦争をやめてヴィーガンのように生きるべきだ」という主張は、「命をどう尊重するか」という高い精神性に基づくひとつの理想的な回答です。
事実を否定するものではなく、「事実から何を学び、どう未来を創るか」を読者に問いかける、論理的かつ情熱的なメッセージです。


