戦争と非暴力|ヴィーガンの視点から考える命と平和

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戦争と非暴力の思想

戦争のニュースが流れるたびに、私たちは言葉にできない痛みを覚えます。遠い国の出来事であっても、破壊された街、嘆き悲しむ人々、奪われていく命の映像は、無益で残酷な現実として、静かに、しかし確かに、心に残ります。

なぜ人は殺し合い、他者の命を犠牲にすることで平和を保とうとするのでしょうか。それは本当に、平和と呼べるものなのでしょうか。

この問いに向き合うとき、一見すると無関係に見える「食事の選択」や「動物との関わり方」が、実は深くつながっていることに気づかされます。お皿の上の命に向き合うことは、社会に埋め込まれた「当たり前の暴力」を見つめ直すことでもあるからです。

ヴィーガニズムという生き方は、一つの視座を与えてくれます。ヴィーガニズムは単なる食事の選択ではありません。あらゆる生命への危害を可能な限り避けようとする、「非暴力(アヒンサー)」という倫理的態度です。それは、祈りにも似た、人間の意思表明だと言えるかもしれません。

この記事では、戦争をめぐる「物語」を解き明かし、私たちが「曇りなき眼」で平和を具現化するための道筋を考えていきます。

導入:私たちは「正解」をどう作らされているか

事実と物語の境界線 | 「ない」ことの証明と、教え込まれた正義

私たちはしばしば、「客観的に証明できないものは存在しない」と考えがちです。けれど本当にそうでしょうか。あるということが立証できないからと言って、無いとは言えない、ことについて触れてみます。

愛、希望、そして「命を奪うことへの根源的なためらい(良心)」は、目に見えなくとも、確かに私たちの内側に存在しています。それらは測定できなくても、私たちの行動や選択に深く影響しています。

恐怖と怒りは、しばしば結びついて現れます。人は恐怖を抱えたままでは苦しいからこそ、それを「怒り」や「正しさ」に変換し、自分を守ろうとします。怖いのに怖くないふりをする。疑いがあるのに押し殺す。その小さな自己欺瞞が、やがて「これが正義だ」という言葉で固められていきます。

戦争の火種となる「怒り」の正体は、実は「恐怖」であることが少なくありません。 恐怖を抱えたままでは耐えられないからこそ、人はそれを「敵への怒り」や「大義という名の正義」へと変換し、自分自身を納得させてしまいます。

この小さな自己欺瞞が積み重なり、やがて「殺すのは仕方がない」という、強固な物語が形づくられていきます。そして怒りに飲まれているとき、私たちは自分の内側に生じている矛盾に気づきにくくなります。

だからこそ、まず必要なのは、他者を裁くことではありません。自分の心に、静かに問いかけることです。

「いま自分は、恐怖をごまかすために誰かを敵にしていないだろうか?」

自分が自分に嘘をつかない、騙さないこと。それは、暴力の連鎖を断ち切るための、もっとも静かで、そしてもっとも勇気ある出発点です。

怒りによって恐怖を覆い隠そうとすると、心は常に緊張と焦燥にさらされます。焦りや複雑な感情に振り回される状態そのものが、私たちを思考停止へと導いてしまうのです。

戦争という「構造」の正体 | 誰が、何のために「戦い」を定義しているか

歴史を振り返ると、多くの戦争は「神の名」や「守るべき正義」のもとに行われてきました。けれど、その正義は、本当に個々人の内側から湧き出たものなのでしょうか。

ときにそこには、民衆を束ねるために、国家の権力と宗教の権威が結びつき、戦いを正当化するための「物語」が編まれてきた歴史があります。その物語は、敵と味方を切り分け、疑う余地を狭め、「戦わなければならない」という感覚を強めていきます。

神は本来、誰かを殺せと命じる存在なのでしょうか。それとも、人の胸の奥にある良心や慈しみを、別の名で呼んだものなのでしょうか。

異なる宗教間での問題、領土問題など、争いの理由はさまざまに語られます。それらが本当に憎しみを生み出したのか。あるいは、対立を正当化するために、後から巧みに利用されたのか。その奥にはしばしば、 「自分を守るために、他者を排除してもよい」という発想が潜んでいます。

さらに、その背後には、戦争によって利益を得る構造が存在する場合もあります。財を築く人々が、戦争をする国や宗教指導者に働きかけ、戦争が止まらないように動く。遠い国で、戦争がより大きく、より長く続くように動いている人たちがいる、そう考えることも、現実から目を背けないためには必要でしょう。

こうした構造がある限り、「敵は悪である」「我々は正義である」という物語は、繰り返し再生産されます。幼いころから摩り込まれた教育や歴史観は、疑うこと自体を難しくし、人は「戦わなければならない」と信じ込まされていきます。

個人の力で、戦争そのものを終わらせることはできないかもしれません。けれど、「戦争は誤りである」ことを、一人でも多くの人に知らせることはできます。

ただ、幼いころから叩き込まれてきた誤った教えは、言葉だけでは届かない場合があります。理屈で崩れない物語もあります。だからこそ、武器を捨て、勇気をもって、戦争が誤りであることを、そして非暴力という姿勢を、行為として示すことに意味があります。

どの国においても、戦争のために戦火の中へ身を投じる人の中に、人の道に背きたいから背き、悪逆な行為だと知りながら戦っている人が、果たしてどれほどいるでしょうか。

「敵は悪だ」「これは正義の戦いだ」そう信じ込まされることでしか、耐えられない現実があるのではないでしょうか。敵国が悪であるかのように語られ、幼いころから摩り込まれてきた「正しさ」によって、戦わなければならないと信じ込み、敵を殺している。

もし、曇りのない眼で真実を見ることができたなら。国や宗教の境界を越えて、同じように恐れ、傷つき、迷いながら生きる存在として、互いを見ることができたなら。

皆が武器を捨て、敵味方の区別なく、負傷した人を助ける道を選ぶのではないでしょうか。

武器を持たない選択。殺さない選択。奪わずに生きる選択。それは弱さではなく、人間が持ちうる、最も勇気ある態度なのかもしれません。

唱歌『ふるさと』が映すもの

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何ににいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいづる故郷

志を果たして いつの日にか帰らん
山は青き故郷 水は清き故郷

未来の戦争

分析:なぜ「良心」は沈黙してしまうのか

生命の真実と人間の性質 | 私たちは本来、残虐な存在なのか

戦火の中へ身を投じる人の多くは、生まれつき残酷でありたいわけではありません。幼いころから摩り込まれてきた「正しさ」、国家によって編まれた歴史、敵を一方的に悪として描く教育。そうした物語の中で「戦わなければならない」と信じ込まされ、同じように家族を持ち、恐れを抱き、迷いながら生きている他者を殺してしまう。この構造こそが、戦争のもっとも恐ろしい側面なのではないでしょうか。

戦争とは、誰かが生まれつき悪だから起こるものではありません。むしろ、人が疑うことを許されなかった結果として起こります。だからこそ、真実を見ること、問い続けること、「本当にそれが正義なのか」と立ち止まることには、計り知れない意味があります。

「善と悪」のパラドックス | 組織の中の善良な人が、なぜ一線を越えるのか

「ヒトほど善良で協調的な種はいない。同時に、ヒトほど残虐に殺し合う種もいない」

この一見矛盾した特徴は、進化人類学や霊長類学の分野で「善と悪のパラドックス」として論じられてきました。人間の暴力には、大きく分けて二つの異なる顔があると考えられています。

  • 反応的(衝動的)暴力
    怒りや恐怖から、瞬間的に相手を殴る・傷つけるといった暴力。
  • 計画的(協調的)暴力
    戦争や処刑、ジェノサイドのように、冷静な判断と役割分担のもと、組織的・継続的に行われる暴力。

皮肉なことに、人間が持つ高度な協調性や計画性は、福祉や文化を築く力であると同時に、ひとたび方向を誤れば、かつてない規模の破壊をも可能にしてしまいます。

「善良な市民」として命令に従い、組織に協力する力が、「これは正義だ」「必要な犠牲だ」という正当化の物語と結びついたとき、個々人の良心は後景に退き、集団としての残虐さが前面に現れます。

戦火の中で命を奪う人は、必ずしも残酷な本性を持っているわけではありません。そこではむしろ、人間特有の「協力する力」そのものが、破壊の方向へ動員されているという側面が見えてきます。

だからこそ問われるのは、私たちが持つこの強力な「協力する力」を、どの方向に向けるのかということです。その針路を定めるものとして、教育や文化、そして日常の価値観の積み重ねが、決定的な役割を果たします。

共生の生命史 | 進化の鍵は「奪い合い」ではなく「利他」にあった

私たちはしばしば、「弱肉強食」を自然界の絶対的なルールだと考えがちです。しかし、約38億年にわたる生命の歴史は、競争だけでなく、共生と協力による飛躍の歴史でもありました。

  • 細胞の共生
    かつて独立していた細胞同士が共生し、ミトコンドリアとして内部に取り込まれたことで、複雑な多細胞生物が誕生しました。
  • 生態系の循環
    植物は太陽の光からエネルギーを生み出し、自らの成長を超えて酸素や食物を他の生命に差し出します。この「分かち合いの循環」なしに、生命は存続できません。

「利己的遺伝子」という言葉も、単に「勝手気ままに振る舞う」という意味ではありません。長期的に遺伝子を残すためには、協力や利他行動が極めて有効な戦略となりうる、それが科学的に示されてきた真意です。

私たちは、「競争」を社会の基本原理として選ぶのか、それとも「共生」を軸に据えるのか。その選択を、常に委ねられている存在なのです。

核心:暴力の根源にある「境界線」

アヒンサー(非暴力)とヴィーガニズム | 思想としての「殺さない」選択

ヴィーガニズムは、ジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教といった古代インド哲学における「アヒンサー(非暴力)」という思想に深く根ざしています。アヒンサーとは、単に「人を傷つけない」ことではなく、あらゆる生命への危害を可能な限り避けるという、全方位的な倫理です。

マハトマ・ガンディーやレフ・トルストイといった思想家たちは、「国家による暴力(戦争)」と「人間が動物に加える暴力」を、
別々の問題ではなく、地続きの同じ構造として捉えていました。

「動物を殺すことに慣れてしまった人々は、やがて人間をも殺すことに慣れてしまう」

この言葉が示しているのは、「必ずそうなる」という単純な因果ではありません。
強者の都合で弱者を犠牲にしてもよい、という論理をどこかで許容した社会は、その境界を拡張していく危険を常に抱えるという警告です。

暴力の地続き | 種差別(スピーシズム)と戦争を結ぶ、心の境界線

動物を「資源」として扱う視線。敵国の人を「記号」や「標的」として扱う視線。一見まったく別のように見えるこの二つは、他者の痛みへの想像力を遮断するという点で、よく似ています。

「自分たち」と「それ以外」を分ける境界線。その線の外に置かれた存在の苦しみは、見えにくくなり、やがて正当化されます。

ヴィーガニズムが問いかけているのは、「誰の痛みを、私たちは見ないことにしてきたのか」という、ごく根源的な問いなのかもしれません。

  • 種差別: 人間と動物の間に境界を引き、弱者を資源として扱う
  • 戦争: 国籍や民族の間に境界を引き、他者を敵として扱う

「境界線を引き、相手の痛みを見えにくくし、支配や搾取を正当化する」この構造が似ているからこそ、ヴィーガンの倫理と平和の倫理は、別々ではなく同じ根から育つ、と考えることができます。動物であれ人間であれ、自分より弱い立場にあるものの命を軽んじる文化がある限り、形を変えて暴力は繰り返されます。

兵士

見えない犠牲 | 戦場の影に隠される「命」の序列

戦争は、人間の命を奪うだけの出来事ではありません。それは、生きものが生きる土台そのものを破壊する行為でもあります。

森林や土壌、水系は、爆撃や兵器によって長期的に傷つきます。地雷や不発弾は、戦争が終わったあとも、何十年にもわたって土地を死なせ続けます。

その影で、生息地を失った野生動物が命を落とし、人間の戦争に「参加させられた」動物たちが、道具として使われてきた歴史もあります。

こうした犠牲は、戦争のニュースの中心に語られることはほとんどありません。けれど確かに、人間の暴力は、人間以外の命にも及んでいるのです。

「人間に対する暴力」を止めることは、「人間が振るうすべての暴力」を問い直すことと、切り離せません。

未来世代が生きるはずだった土地や水や空気を奪うこともまた、静かな形の暴力なのではないでしょうか。

戦争では動物の命は考えない。

展望:平和を具現化する3つの転換

平和は、個人の善意や意識変革だけで実現するものではありません。同時に、それを支え、広げていく社会の仕組みが必要です。ここでは、平和を理想論で終わらせず、現実の選択肢として根づかせるための三つの問いを提示します。

教育:競争よりも、想像力を育てる

現代の教育は、競争や成果を重視しがちです。けれど、平和を支えるのは「勝つ力」ではなく、他者の痛みを想像する力です。植物を育てること。動物や自然と関わること。違いを排除せず、対話で乗り越える経験。身体を通じて「奪わずに生きる」感覚を学ぶことが、暴力に対する本能的な違和感を、静かに育てていきます。

経済:奪わなくても回る仕組みへ

有限な資源を奪い合う構造がある限り、争いは形を変えて繰り返されます。分散型・地域循環型の経済モデルを育てることは、環境対策であると同時に、最大の安全保障でもあります。「奪わなければ成り立たない」という前提を手放す可能性を、持続可能な社会は、私たちに示してくれます。

技術:壊す道具から、支える道具へ

問題は、技術があるかどうかではありません。それをどの方向に使おうとするのかという「意思」です。兵器開発ではなく、対話を深め、理解を助け、動物や自然の犠牲に代わる選択肢を広げる技術へ。技術の目的を「支配」から「共生」へと切り替えることは、私たち自身の価値観の選択でもあります。

教育・経済・技術が、同時に「共生」の方向を向いたとき、平和は抽象的な理想ではなく、現実的な選択肢になります。それらを「奪うため」に使うのか、それとも「守るため」に使うのか。その選択が、未来の姿を大きく左右します。

テーマ現代におけるアプローチ
教育の再設計「勝つ力」ではなく「共に生きる想像力」を育む。生命の循環を体感し、暴力への違和感を養う。
循環型経済への転換再生可能資源と分散型モデルによる、奪い合わない経済。資源争奪を減らすことが安全保障になる。
非暴力テクノロジーの推進破壊兵器や動物犠牲に代わる、対話と共生を支える技術。支配から共生へのシフト。

結び:今日からできる、静かな革命

人間には、善悪の両方の可能性があります。その二面性を完全に消し去ることはできないかもしれません。けれど、管理し、抑制し、どの方向へ向けるかを選ぶことができます。それが、いま私たちが立てる、もっとも現実的で誠実な立場ではないでしょうか。

小さな非暴力 | 日常の選択から、世界を塗り替える

「平和」は、遠い国の大統領や指導者だけが決めるものではありません。それは、私たち一人ひとりの日常の選択と、心の向け方から始まります。

「世界を変えるには小さすぎる」と思えるほどのささやかな非暴力から、始めてみませんか。「今日、誰か一人に小さな優しさを届ける」くらいに。

  • 誰かが困ってたら「お手伝いしましょうか?」と声かける(勇気は要りますが、効果は確かです)
  • 近所でゴミを1つ拾う
  • 「ありがとう」を、きちんと言葉にして伝える
  • 自分がされて嫌なことは、他人にしない
    それは単純ですが、もっとも確かな非暴力の指針です。
  • 自分が自分に嘘をつかない
    怒りの下にある「恐怖」に、そっと目を向けてみる。本当に敵がいるのか、それとも不安をごまかしていないかを問い直す。
  • 他者の痛みを、自分の痛みとして想像する
    食卓の向こう側にある命。画面の向こう側で起きている出来事。そこに、自分と同じように恐れ、傷つき、迷う存在がいることを思い出す。

非暴力とは、特別な英雄的行為ではありません。「結果が変わるかどうか」ではなく、「行動したかどうか」に価値を置く姿勢です。

すべての暴力はどこかで繋がっています。そして、すべての平和への願いもまた、静かに繋がっています。 憎しみや欲望に流されず、内なる良心の声に耳を澄ませること。そこから、戦争のない、真に平和な世界への歩みが始まるのだと思います。

「誰かの犠牲の上に成り立つ平和」ではなく、できる限り、すべての命を尊重する地平を目指す。その姿勢を、日常の選択として引き受けること。

多くの人は、自分が突然、理不尽な暴力の犠牲になるとは想像していません。それでも現実には、戦争や紛争、テロは繰り返されています。けれど、人間の内側には確かに「良心」と呼べるものが存在します。その声に耳を澄ませ、謙虚に生きようとするなら、争いは少しずつでも和らいでいくはずです。

人は互いに違う存在です。その違いを否定するのではなく、話し合う力を使うこと。それは人間に与えられた、もっとも希望のある能力なのです。

あとがき | 事実・解釈・信念を混同しないためのガイド

この記事は、特定の国や宗教、思想を批判するためのものではありません。

私たち一人ひとりの内側に潜む、暴力へと傾きうる心の癖を見つめ、それを、少しずつ慈しみへと変えていくための提案です。

事実を否定するのではなく、事実から何を学び、どんな未来を選ぶのか。その問いを、読者とともに考えるために書かれています。

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