徳川綱吉と生類憐れみの令|それでも「犬公方」と呼びますか

徳川綱吉(1646〜1709)は、江戸幕府第5代将軍です。

綱吉と聞いて、「生類憐れみの令」や「犬公方」という言葉を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。綱吉には、「犬を大切にしすぎて、人々を苦しめた将軍」というイメージが広く知られています。

ところが、生類憐れみの令について調べていくと、それだけでは説明できないことがいくつも出てきます。近年では、綱吉の政治をあらためて捉え直す研究も増えています。

そもそも「生類憐れみの令」は、犬だけを特別に保護した一つの法律ではありません。捨て子や病人、行き倒れ人、牛馬、犬猫、鳥、魚介類など、人や動物を保護する内容を含む法令が、20年以上にわたって繰り返し出されました。

その背景には、儒学の「仁」を社会に広げ、戦乱の時代から平和な時代にふさわしい秩序へ移っていこうとする、綱吉の政治理念があったとも考えられています。

もちろん、その運用によって人々に大きな負担が生じたことや、厳しい処罰が行われたことも見過ごすことはできません。

では、私たちがよく知る「犬公方」というイメージと、実際の綱吉の政治には、どのような違いがあったのでしょうか。生類憐れみの政治をたどりながら、徳川綱吉という人物について改めて考えてみたいと思います。

武力よりも学問と道徳を重んじた将軍

綱吉が将軍に就任したのは、延宝8年(1680年)のことです。

戦国時代が終わってから約80年がたっていましたが、武士の社会には、力によって問題を解決する価値観がなお残っていました。

綱吉が進めたのが、武力を背景とする「武断政治」から、学問や礼節、道徳を重んじる「文治政治」への転換です。

綱吉は自ら儒学を学び、大名や幕臣にも講義を行いました。湯島聖堂を整備し、武士が年頭に行ってきた「兵法初め」を「読書初め」へ改めるなど、武力よりも学問を重視する姿勢を示しています。

また、乱暴狼藉や私闘を禁じ、酒に酔って秩序を乱す行為を取り締まりました。武士の奢侈や規律の乱れ、役人の怠慢や不正にも厳しく対応しています。

巨大軍船「安宅丸」を解体したことも、武力を誇示する政治から距離を置こうとした政策の一つと見ることができます。

こうした政策を見ていくと、弱い立場に置かれた人々を保護する一方、権限を持つ武士や役人には責任と節度を求めようとしていたことがうかがえます。

将軍になる前から縮小していた鷹狩り

綱吉の殺生に対する考え方は、将軍就任後に突然生まれたものではなかったようです。

館林藩主だった時代から、武家の権威を示す行事でもあった鷹狩りを縮小していたとされています。将軍となった後には鷹狩りを停止し、放鷹制度を段階的に廃止しました。

鷹狩りでは、獲物となる鳥だけが犠牲になったわけではありません。当時は、村で飼育された犬が鷹の餌として供出されることもありました。

そのため鷹狩りの廃止は、捕らえられる鳥だけでなく、餌として利用される犬を減らすことにもつながりました。

後に始まる生類憐れみの政治も、思いつきで始められた犬の保護政策ではなく、綱吉が以前から持っていた殺生への問題意識と連続していた可能性があります。

幕閣の権力構造を変えた綱吉

綱吉は、慣例や前例をそのまま踏襲するタイプの将軍でもなかったようです。前政権で大老・酒井忠清らが裁定した越後高田藩の御家騒動について再審を行い、関係者を改めて処分しています。

前将軍・家綱のもとでは、大老・酒井忠清が「下馬将軍」と呼ばれるほどの権勢を振るっていました。しかし綱吉が将軍に就任すると、酒井は大老職を解かれ、政治の中心から退きます。

代わって重用されたのが、綱吉の将軍就任を支えた堀田正俊でした。綱吉は堀田とともに役人の怠慢や不正を取り締まり、代官が支配地域の人々を苦しめた場合には、その責任を問いました。

綱吉初期の政治は「天和の治」と呼ばれ、その改革には堀田正俊の存在も大きかったとされています。

一方で、こうした政治の転換は、それまでの幕閣の権力関係を大きく変えるものでもありました。堀田が幕政の中心的な存在となったことで、幕閣の力関係も変化していきます。

貞享元年(1684年)、堀田正俊は江戸城内で、若年寄・稲葉正休に刺され、命を落とします。正休もその場で斬り殺されたため、犯行の動機については明らかになっていません。

ここで興味深いのは、正休が、小田原藩主として幕政にも関わった稲葉正則と同じ稲葉氏の一族だったことです。

正則は家綱政権下で酒井忠清とともに幕政を担い、綱吉の将軍就任をめぐる政局にも関わった人物です。その後、酒井が政治の中心から退き、堀田正俊が台頭。そして、その堀田を同じ稲葉氏の正休が殺害することになります。

ただし、こうした人物関係が堀田暗殺の背景にあったことを示す確かな史料があるわけではありません。犯行の動機そのものが不明である以上、両者を直接結びつけることには慎重であるべきででしょう。

それでも、綱吉への政権交代とともに幕閣を構成する人物が入れ替わり、その過程で堀田暗殺という事件が起きたことは、当時の政治状況を考えるうえで興味深い点です。

綱吉の政治改革の背後では、旧来の権力関係が崩れ、新しい政治体制へ移るなかで、さまざまな緊張も生まれていたのでしょう。

綱吉はまた、従来の有力譜代大名だけに政治を任せるのではなく、自ら信頼する人物を取り立てていきました。

こうした人事からは、既存の権力関係にそのまま依存するのではなく、自ら主導して幕政を動かそうとする綱吉の姿勢もうかがえます。

こうした政治手法は、幕政の刷新を進めると同時に、それまでの幕閣の権力構造にも変化をもたらしていきました。

綱吉に謁見したケンペルの記録

ドイツ人医師・博物学者のエンゲルベルト・ケンペルは、オランダ商館の医師として元禄3年(1690年)に来日しました。翌1691年と1692年の二度、江戸参府に同行し、江戸城で綱吉に謁見しています。

公式の謁見は、商館長が将軍の前でひれ伏し、一言も交わさず退出する形式的なものでした。しかし、その後には別室で二度目の謁見が行われ、ケンペルらは年齢や出身地、オランダやバタビアまでの距離、病気や不老長寿の薬など、さまざまな質問を受けました。

さらに、歩き方や挨拶、踊り、朗読などを披露するよう求められ、ケンペルはオランダ語やドイツ語で歌を歌ったと記しています。

もちろん、ケンペルの記録だけで綱吉の政治全体を評価することはできません。それでも、実際に綱吉と対面した同時代人の記録は、後世に定着した「犬だけを偏愛した暗愚な将軍」という人物像を見直す手がかりになります。

ケンペルの『日本誌』には、生類憐れみの政治が庶民の行動に及ぼした影響も記されています。旅の途中、犬にかまれた人足に、なぜ犬を退治しなかったのかと尋ねると、人足は、そのようなことをすれば自分の命に関わるという趣旨の返答をしました。また、久留米では、犬を殺した者を知らせた人に褒賞を与えるという高札も目撃しています。

これらは、犬の殺傷を禁じる政策が各地に伝えられ、人々に強い緊張を与えていたことを示す同時代の記録です。動物を守るという理念があった一方、厳しい処罰への恐れが人々を萎縮させていたことも見落とせません。

生類憐れみの令とは何だったのか

「生類憐れみの令」という名称から、一つの法律が出されたように思われがちです。

しかし実際には、貞享2年(1685年)ごろから綱吉が亡くなるまで、対象や内容を変えながら繰り返し出された多数の法令を指します。そのため、現在では「生類憐れみの政治」あるいは「生類憐み政策」と捉える見方もあります。

将軍の御成りの際にも、犬や猫を外に出していて構わない。犬や猫をつないでおく必要もない。

これは、「御成りの道に犬や猫をつないではならない」という意味ではありません。

将軍が通るからといって、沿道の犬や猫を捕らえたり、つないだり、追い払ったりする必要はないとしたものです。

将軍の通行を理由に、生き物の日常を乱す必要はない。生類憐れみの政治は、そのような触書から始まったとされています。

捨て子や病人も「生類」だった

生類憐れみの政治が保護しようとしたのは、動物だけではありません。

捨て子、病人、行き倒れ人など、自ら助けを求めることが難しい人々も対象でした。

当時、貧困などを理由に子どもを捨てることは、決して珍しいことではありませんでした。綱吉政権は、捨て子を見つけてもすぐに役所へ連れて行くのではなく、まず発見した地域で保護し、養育することを求めました。

これは、捨てられた子どもを厄介者として追い払うのではなく、地域社会全体で支えるべき存在と位置づけた政策です。

一方、養育費などを得る目的で制度を悪用する行為には、厳しい処分が科されることもありました。

病人や行き倒れ人についても、見て見ぬふりをせず、宿や地域、役人が保護することを求めています。

綱吉が考えた「生類」とは、犬だけを意味する言葉ではありませんでした。人であるか動物であるかを問わず、社会から捨てられ、見過ごされやすい存在にまで政治の目を向けようとしたのです。

役に立たなくなった牛馬を捨てることも禁じた

江戸時代の牛や馬は、農耕や運搬を支える重要な労働力でした。

しかし、老いたり病気になったりして働けなくなると、道端や野原へ捨てられることがありました。

綱吉政権は、こうした「捨て牛馬」を禁じます。

人のために働いてきた動物を、役に立たなくなったからといって遺棄することを認めなかったのです。

また、馬に過剰な荷物を積むことや、病気やけがを放置することなども規制しました。

これらは現代の動物福祉と同じ制度ではありません。しかし、動物を単なる道具として扱い、利用価値を失えば捨てるという慣習に、政治が介入した点は注目に値します。

中野犬小屋はなぜ造られたのか

生類憐れみの令を象徴するものとして、しばしば中野犬小屋が挙げられます。

江戸には多くの犬が暮らしていましたが、飼い主のいない犬による人への危害や、犬同士の争い、病気、捨て犬などが都市問題になっていました。

犬を殺して数を減らすのではなく、収容して生かそうとした施設が犬小屋です。

なかでも中野の犬小屋は広大で、多数の犬を収容したため、維持費や周辺住民の負担が大きくなりました。犬の餌代などを負担させられた人々にとって、歓迎できる政策ではなかったでしょう。

したがって、中野犬小屋を単純に理想的な動物保護施設だったと評価することはできません。

一方で、犬小屋は「犬を人間以上に優遇するためだけに造られた施設」とも言い切れません。殺処分ではなく保護によって、巨大都市・江戸の無主犬問題に対応しようとした側面があったからです。

政策の理念と、実際の運用によって生じた負担は、分けて考える必要があります。

鳥や魚介類にまで及んだ殺生の制限

生類憐れみの政治は、犬や猫、牛馬だけでなく、鳥や魚介類にも及びました。

生きた鳥や亀、魚介類の売買、見世物としての利用、必要以上の捕獲や殺生などが、段階的に規制されています。

ただし、当時の漁業や魚食が全面的に禁止されたわけではありません。猟師や漁師の生業そのものは続けられており、すべての殺生を一律に禁じた政策ではなかったことには注意が必要です。

また、人に危害を加える動物から身を守る行為まで、すべて同じように処罰されたわけではありません。

つまり、生類憐れみの政治は「動物を一匹でも殺せば死刑になる」という単純な法律ではなく、対象や時期、地域によって内容も運用も異なる、複雑な政策体系でした。

綱吉の政治は犬食の衰退にも影響したのか

日本では、中世から江戸時代初期にかけて、犬を食用とする習慣が一部に残っていました。また、犬は人が直接食べるだけでなく、御鷹の餌として利用されることもありました。

綱吉の時代には、犬を殺したり傷つけたりする行為が規制され、鷹狩りと放鷹制度も廃止されていきます。

その結果、

  • 人が犬を食べることへの規制
  • 鷹の餌として犬を利用する仕組みの縮小
  • 犬を殺傷せず、保護するという規範の浸透

が重なりました。

日本の犬食がいつ、どのように全国から消えていったのかを、一つの政策だけで説明することはできません。地域差もあり、「綱吉が犬食を完全になくした」と断定できる史料もありません。

それでも、生類憐れみの政治が、犬を食用や餌として利用する対象から、人が保護すべき身近な動物へと変えていく、一つの大きな契機になった可能性はあります。

綱吉の犬政策は、単に犬の数を増やしたのではなく、日本人と犬との関係そのものを変えたのかもしれません。

「仁」に基づく、弱者を見捨てない政治

綱吉の政治を読み解く鍵となるのが、儒学における「仁」です。

仁とは、他者を思いやり、慈しむ心を意味します。

捨て子、病人、行き倒れ人、捨てられる牛馬、傷つけられる犬や猫、捕らえられる鳥や魚介類。

一つひとつを見ると、異なる対象に向けられた個別の法令に見えます。

しかし、その根底には、自ら声を上げることができず、人間社会の都合によって捨てられ、傷つけられる存在を見捨てないという、一貫した姿勢がありました。

綱吉は、弱い立場の存在を守ろうとする一方で、大名や旗本、幕府の役人など、力を持つ者には厳しい規律と責任を求めました。

「犬を人間より大切にした」のではありません。

人間社会の秩序や都合の外側に追いやられてきた人や動物を、政治が庇護すべき対象に含めようとしたのです。

なぜ人々の反発を招いたのか

法令は次第に細かくなり、違反者に厳しい処分が科されることもありました。何が違反になるのか分かりにくい規制も増え、人々を萎縮させたとも考えられます。

犬小屋の維持や犬の養育に伴う経済的負担も、庶民に重くのしかかりました。

さらに、綱吉の改革は、武士社会が長く重んじてきた価値観そのものに触れるものでした。

  • 鷹狩りなど、殺生を伴う武家の慣習を廃止する
  • 軍備を縮小し、武力より学問を重んじる
  • 私闘や乱暴狼藉、過度な飲酒を取り締まる
  • 武士の奢侈や役人の腐敗を正す
  • 過去の裁定であっても再審する
  • 権限を持つ者に厳しい責任を求める

こうした改革は、従来の武家社会に慣れた人々や、既得権益を持つ層にとって、決して受け入れやすいものではなかったでしょう。

問題は、理想そのものよりも、その理想を法令の力によって社会の隅々にまで、急速に浸透させようとした点にあったのかもしれません。

なぜ「犬公方」という悪名だけが残ったのか

綱吉の死後、生類憐れみの政治は速やかに見直されました。

長く続いた複雑な政策のなかで、後世の人々に最も分かりやすく、印象に残ったのが「犬」でした。

捨て子の保護や病人の救済、捨て牛馬の禁止、役人の規律、鷹狩りの廃止といった政策は忘れられ、犬小屋や厳しい処罰の話だけが繰り返し語られていきます。

こうして綱吉は、「犬のために人間を苦しめた将軍」として単純化されました。

しかし、生類憐れみの政治を「犬を過剰に保護した奇妙な政策」とだけ捉えると、その根底にあった一貫した志を見失います。

政策の強制性や運用上の問題を批判することと、政策が目指したものまで否定することは、同じではありません。

歴史小説『最悪の将軍』が描く綱吉

綱吉の人物像を考えるうえで、参考になる作品の一つが、朝井まかて氏の歴史小説『最悪の将軍』です。

作品のなかで綱吉は、「犬公方」という単純な暴君ではなく、高い理想と厳しい現実の間で苦悩する統治者として描かれています。

登場人物の感情や会話をそのまま史実とすることはできませんが、「最悪の将軍」という後世の評価の向こう側に、どのような人物がいたのかを想像するきっかけを与えてくれる作品です。

歴史小説と、塚本学氏や仁科邦男氏らの研究をあわせて読むことで、綱吉の人物像をより立体的に捉えられるでしょう。

相次ぐ災害を乗り越えた綱吉の時代

綱吉の治世は、華やかな元禄文化が栄えた時代である一方、大きな災害が相次いだ時代でもありました。

元禄16年(1703年)には、南関東を大地震と津波が襲った元禄地震が発生します。そのわずか4年後には、日本各地に甚大な被害をもたらした宝永地震が起こり、さらに49日後には富士山が大噴火しました。火山灰は江戸にも降り積もり、山麓の村々では長く深刻な被害が続きました。

このほかにも、江戸や京都では大火が発生しています。綱吉の治世後半は、まさに地震、津波、噴火、大火が重なった激動の時代でした。

これほど大きな災害が続けば、社会不安が広がり、幕府の統治が揺らいでも不思議ではありません。それでも江戸社会は崩壊せず、復旧と再建を重ねながら次の時代へ受け継がれていきました。

それを綱吉一人の功績とすることはできません。しかし、武力ではなく学問と秩序を重んじ、役人に責任を求め、捨て子や病人、行き倒れ人などを地域で支える仕組みを整えようとした綱吉の政治が、災害の続く社会を支える土台の一つになった可能性はあります。

綱吉の政治は、平穏な時代に理想を掲げただけのものではありませんでした。自然災害が相次ぐなかでも、弱い立場に置かれた存在を見捨てず、社会の秩序を保とうとした政治でもあったのです。

もしかすると、これほどの激動を乗り越えることができたのは、綱吉の時代だったからこそなのかもしれません。

徳川綱吉は暴君だったのか

細かな法令によって人々の生活に介入し、厳しい処分や大きな経済的負担を生じさせたことは、正当に検証される必要があります。

しかし、「犬公方」という言葉だけで綱吉を暴君と決めつけることも、歴史の一面しか見ていない評価です。

綱吉が目指したのは、犬だけを大切にする社会ではありませんでした。

武力を誇る者が支配する社会から、学問と道徳を重んじる社会へ。

弱い存在が見捨てられる社会から、統治する者がその保護に責任を持つ社会へ。

戦国時代の「力の論理」から、平和な時代の「慈しみの論理」へ。

生類憐れみの政治は、その大きな転換を目指す試みだったのではないでしょうか。

犬の保護だけを切り取って笑い話にするのではなく、捨て子や病人、行き倒れ人、牛馬、鳥や魚介類にまで目を向けた政治として見直すと、異なる綱吉の姿が見えてきます。

私たちが「犬公方」という言葉だけで彼を語るとき、後世に作られた一面的なイメージを、無批判に受け継いでいるだけなのかもしれません。

それでも、あなたは今も彼を「犬公方」と呼びますか。

日本に受け継がれてきた不殺生の思想

綱吉の政策の背景には、仏教の慈悲や不殺生の考え方もあったとされています。

日本では古くから、仏教の影響によって、生き物をむやみに殺すことを戒める思想が受け継がれてきました。

675年には、天武天皇が牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁じる勅を出しています。これは、食用とされるすべての動物を対象にしたものではなく、農耕に必要な牛馬の保護など、複数の目的があったと考えられています。

その後も肉食や殺生を制限する命令は繰り返され、寺院では植物性の食材を生かした精進料理が発達しました。

実際の食生活は地域や身分、時代によって異なりますが、それでも、不殺生や慈悲という考え方が、日本の精神文化に長く影響を与えてきたことは確かです。

儒学の「仁」と、仏教の慈悲や不殺生。

こうした思想が重なり合う中に、綱吉の政策も位置づけられるのかもしれません。

廃止された法令と受け継がれた考え方

綱吉の死後、生類憐れみの令の多くは廃止または見直されました。しかし、廃止されたことだけをもって、すべてが悪政だったと結論づけることはできません。

犬小屋など、その時代の事情に応じて役割を終えた制度がある一方、捨て子や牛馬の遺棄を禁じる法令、鉄砲の取り締まりなどは、その後の幕法や藩法にも受け継がれました。

綱吉の死後に出された触れにも、「生類憐れみ申すべきこと」という考え方が残されていたとされます。

制度は変わっても、弱い立場の存在に配慮し、むやみな殺傷を戒める考え方まで、直ちに消えたわけではなかったのです。

ヴィーガンである筆者から見た徳川綱吉

ヴィーガンとして生きる筆者にとって、綱吉の姿勢には強く興味を惹かれます。

綱吉は、「天和の治」といわれる改革を進め、人や生類への憐れみを社会の規範とする政治を目指します。しかしその前には、諸藩の問題、赤穂浪士の討ち入り、元禄地震、富士山の噴火など、さまざまな難題が立ちはだかります。

一連の法令が犬だけでなく、人、馬、鳥、魚介類など広い範囲に及んでいたことを考えると、生き物の扱いや殺生について社会全体に問いを投げかけた政策だったことはうかがえます。

また、当時の日本には仏教の不殺生思想があり、植物性の食材を生かした食文化も発達していました。

そのような背景を踏まえると、江戸時代の日本に、現代のヴィーガニズムと重なる価値観がすでに存在していたのではないか、という見方も生まれます。

もちろん、これは一つの解釈です。

それでも、300年以上前の日本で、生き物への接し方を政治の問題として取り上げ、弱い立場の存在を庇護しようとした将軍がいたことは、非常に興味深い事実です。

綱吉が重視した「仁」は、人や生き物のあいだに引かれた境界を越えて、弱い立場の存在にまで思いを向ける力だったのかもしれません。

動物を含む弱い立場の存在を取り残さない社会を目指すことは、現代のヴィーガニズムにも通じる精神です。

そのことは、現代に生きる私たちが、人と動物の関係をあらためて考える一つの手がかりになるのではないでしょうか。

参考資料

ヴィーガンという生き方については、こちらの記事もご覧ください。

タイトルとURLをコピーしました