【コラム】徳川綱吉と生類憐れみの令|「犬公方」は本当に暴君だったのか

徳川綱吉(1646〜1709)は、江戸幕府第5代将軍です。綱吉の名前を聞くと、多くの人は「生類憐れみの令」を思い浮かべるでしょう。

犬を大切にしすぎた将軍。犬のために庶民を苦しめた将軍。「犬公方(いぬくぼう)」という呼び名とともに、長い間そのような人物として語られてきました。

しかし近年の研究では、その評価は少しずつ変わりつつあります。生類憐れみの令は、本当に犬だけを守るための法律だったのでしょうか。そして綱吉は、何を目指していたのでしょうか。

平和な時代に生まれた将軍

綱吉が将軍になったのは1680年です。この頃の日本は、徳川家康が江戸幕府を開いてから約80年が経過していました。天下は統一され、大規模な戦争はありません。

しかし、人々の価値観にはまだ戦国時代の名残が残っていました。武勇が尊ばれ、力の強さが重視される社会です。綱吉は、そのような空気を変えようとしました。

彼が重視したのは儒学でした。儒学は礼節や道徳、人としてのあり方を重んじる思想です。綱吉は学問を奨励し、湯島聖堂を整備するなど、幕府の文治政治を進めました。

それまでの武力中心の価値観から、秩序と道徳を重視する社会への転換を目指したのです。

生類憐れみの令は何を守ろうとしたのか

生類憐れみの令は、一つの法律ではありません。1680年代から1700年代にかけて出された多くの法令の総称です。その内容は、犬の保護だけではありませんでした。

法令には、

  • 捨て子の保護
  • 病人や行き倒れ人の救済
  • 高齢者への配慮
  • 犬や馬などの保護
  • 生き物への虐待の禁止

などが含まれていました。

また、鳥や魚介類、生きた虫の売買や飼育を制限する法令も出されており、その対象は犬だけにとどまりませんでした。

江戸時代の法令を集成した『徳川禁令考』を見ると、そこには犬猫だけでなく、捨て子や病人保護など、多岐にわたる保護政策が記されています。単なる犬の保護令ではなかったことが、史料からも明らかです。

つまり、生類憐れみの令の対象は犬だけではなく、人間を含むさまざまな存在だったのです。

なぜそこまで生き物の保護にこだわったのか

綱吉がなぜここまで命にこだわったのかについては、さまざまな説があります。
母・桂昌院の影響を受けたという説。
仏教思想の影響を受けたという説。
儒学的な仁政を実現しようとしたという説。
どれか一つに断定することはできません。

ただ近年では、生類憐れみの令を単なる動物愛護政策ではなく、平和な時代にふさわしい社会秩序を築くための政策として捉える見方もあります。

平和な時代には、戦国時代のような力の論理ではなく、人々が互いを思いやり、秩序を守ることが求められます。

綱吉にとって、生類憐れみの令は単なる動物保護ではなく、社会全体の規律を正すための政策でもあったと考えられています。

生き物がもっと身近だった時代

江戸時代の人々にとって、生き物はもっと身近な存在でした。農村では牛や馬が人々とともに働いていました。現代のような畜産や食肉処理の仕組みはなく、人と生き物との距離は今よりも近かったと考えられます。

綱吉は、鳥や魚をむやみに捕らえることや、生き物をいたぶる行為には厳しい姿勢を示しました。その関心は犬だけに向けられていたわけではありません。

馬や鳥、魚介類にまで及んだ数々の法令を見ると、綱吉が問題視していたのは「犬」ではなく、「殺生」や生き物への向き合い方そのものだったのかもしれません。

なぜ反発されたのか

一方で、生類憐れみの令は多くの反発も招きました。

どれほど理想が立派でも、強制されれば反発が生まれます。

後世に残る「犬公方」というイメージには、こうした人々の不満や反感も反映されているのでしょう。

再評価される綱吉

かつての歴史教育では、綱吉は失政の将軍として語られることが少なくありませんでした。しかし近年では、「犬だけを守ろうとした将軍」という単純な見方は見直されつつあります。

300年以上前、徳川綱吉は生類憐れみの令を通じて、人間だけでなく動物を含むさまざまな存在の保護を政策として進めました。

その試みは多くの反発を招き、今日に至るまで賛否の分かれる政策として語られています。

しかし、生類憐れみの令を改めて見つめ直すとき、そこには単なる「犬のための法律」では語り尽くせない、平和な時代の秩序と、生き物との向き合い方をめぐる問いが見えてきます。

徳川綱吉は暴君だったのでしょうか。それとも理想を追い求めた改革者だったのでしょうか。

戦国の価値観から平和な社会へ移行する中で、人や生き物、そして社会の規律をどう扱うかを誠実に模索した将軍として見ると、生類憐れみの令もまた違った姿を見せてくれます。

答えは簡単ではありません。だからこそ徳川綱吉は、今なお評価の分かれる将軍であり、日本史の中でも特に興味深い人物であり続けているのかもしれません。

【筆者による推論】

徳川綱吉がその過激とも言える政策を通じて伝えたかったことは、単なる動物の保護ではありません。それは、戦国時代の「力による支配」から、「平和な時代にふさわしい社会をつくること」だったのではないかと筆者は考えています。

  1. 「力」ではなく「慈しみ」を重視する社会
    また綱吉は、「強い者に厳しく、弱い者にやさしい」統治者だったようにも見えます。武士や幕府内部には厳しい規律を求める一方で、捨て子や病人、行き倒れ人、さらには動物にまで保護の対象を広げました。
  2. 「殺生」への倫理的な問いかけ
    生類憐れみの令の背景には、仏教の殺生戒や慈悲の思想が影響していた可能性があります。綱吉は、生き物をむやみに傷つけたり殺したりすることに対して、社会全体で立ち止まって考えるよう促そうとしていたのかもしれません。
  3. 「儒・仏・神」が重なり合う平和思想
    綱吉は儒教の「仁」、仏教の「慈悲」、そして神道的な秩序観を重視していました。そのため生類憐れみの令は、単なる動物保護政策ではなく、平和な時代の道徳や秩序を築こうとする試みだったとも考えられます。

300年以上前の日本に、生き物の扱いや殺生について真剣に向き合い、それを社会の規範として示そうとした将軍がいたことは、非常に興味深い事実です。仮に「江戸時代、すでに日本は現代のヴィーガニズムと重なるような価値観があった」という視点で見れば、綱吉は日本社会が本来持っていた生き物と共生する価値観を、制度として最大限に広げようとした指導者のようにも映ります。

もちろん、これは一つの解釈に過ぎません。

しかし、綱吉は自分への批判や「犬公方」という汚名を被りながらも、生き物を粗末に扱う社会を改めようとしていたように見えます。批判や反発を受けながらも、生き物の扱いや殺生について社会全体に問いを投げかけ続けた姿勢には、今なお学ぶべきものがあるように感じています。

参考資料

命について考えるヴィーガンという生き方については、こちらの記事もご覧ください。

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